東北出身者が東京で広告代理店の営業マンになったら、マグロの気持ちが少しわかった

「悪いけど、東北の人とは一緒に仕事したくないよ」

その言葉に、私は耳を疑いました。

まわりの同僚たちがどっ、と笑ったので、上司の発言はジョークだったのかと、私は気付きました。

気分よさそうに上司は続けました。

「だって東北の人って口下手で、何考えてるか分かんねぇんだもん。そのくせマイペースだし」

たしかに。

東北出身である私には、わずかにその自覚がありました。

「県民性」なんてものに、どれだけの説得力があるのでしょうか?

たとえば、私の出身地である東北の宮城県。

ほとんどの人のイメージは、「口下手」「忍耐強い」「のんびりしている」あたりでしょう。

一見、根拠のない決め付けにも思えるが、実はそうでもありません。

豊かな自然が育む農作物に、日本有数のマグロ水揚げ量を誇る漁場などのおかげで、古くから経済的に安定していたことが、のんびりとした県民性を作ったという説もあります。

私自身も、口下手で、なおかつ、のんびりとしていました。

4年前、私は広告代理店に就職した。それ以来、いわゆる「広告の営業マン」として忙しく働いています。

私は、いつも多種多様で膨大な量の仕事に追われています。

クライアントへのあらゆる提案や交渉ごと、資料作成からプレゼンテーションの準備、社内調整やプロジェクトの進行管理など、その他多くの業務を次々にこなさないといけません。

毎日違うことをしながら、毎日違う人に会い、毎日違う目標を次々とクリアしていきます。

それができなければ、私の仕事は成立しませんでした。

私が働く広告代理店は、築地市場の近くにあります。

その近くを通るとき、故郷の宮城県で水揚げされるマグロを彼は思い出しました。

「きっとこの築地市場にも、宮城県からやってきたマグロがやってきているに違いない」

私はいつのまにか、日々忙しく働いている自分を築地のマグロに重ね合わせて考えるようになりました。

よく知られているように、マグロは泳ぎ続けていなければ呼吸ができずに死んでしまいます。

そのため、ずーっと泳いでいます。なんと寝ている間も泳いでいるそうです。

そんなマグロの宿命と、朝から晩まで働くような自分の生活ぶりは、どこか似ています。

私はふと考えました。

マグロは、どんな気持ちで泳ぎ続けているのでしょう?

就職してからの日々はあっという間に流れ、私はどんどん仕事に慣れていきました。

仕事の幅も広がり、取り扱う案件の規模もどんどん大きくなりました。

部下を持つようになり、その働きぶりにはさらに磨きがかかっていきました。

「お前、最近なんか、ハツラツとしてるよな」

職場の同僚の目にも、私の働く姿は活き活きとしているように映ったようです。

ある夏の日、私は上司に話した。

「実は、来月で会社を辞めようと思っています」

上司は驚いていました。

まさかそんなことを私が言い出すとは、少しも想像していなかったかのように。

しかし私の中には、入社してからずっと、どうしても拭いきれない違和感がありました。

近年「コミュ力」という言葉を、やたら聞くようになりました。

どの業種の仕事においても、いまや「コミュ力」は必須でしょう。

たしかに社会は他人同士の集まりですから、コミュニケーションができなければ、そこに入っていくことは難しいです。

そこで繰り広げられるビジネスをうまくやるには、さらに高い「コミュ力」が求められるのは当然です。

その難しさを、私はずっと感じ続けていました。

拭えない劣等感をずっと感じ、息が詰まるような苦しさを心のどこかで抱えていました。

「どんなに仕事を覚えても、どんなにたくさんの経験を積んでも、俺の中には絶対に変わらない部分がある。それが私の口下手で、マイペースな性格を作り上げている」

広告代理店の営業マンにはふさわしくない自分の性格を、とりあえず、私は「県民性」のせいにしていました。

そうでもしなければ、日々続いていく忙しさの荒波に飲み込まれて、私は溺れてしまっていたはずです。

上司や同僚の説得により、いったん私は、退職せずに働き続けることにしました。

現在、私は日々の仕事をこなしながら、こっそり次のステージへ移っていくイメージを描き続けています。

今も感じ続けている壁を強引に乗り越えて、広告代理店の営業マンの道を精進するべきか。

その限界を乗り越えることを諦めて、回り道をして先へ進めるルートを探すべきか。

いずれにしろ私の中には、なんとなく今のまま仕事を続けていくという選択肢はありません。

マグロは泳ぎ続けなければ死にます。

それは彼も同じなのかもしれません。

社会という海にいる限り、私は窒息してしまう危険にいつも晒されています。

どんなときも息苦しさを感じています。

しかし、だからこそ、私はどこかへ行こうとし続けます。

もっと息がしやすい場所を求め、その場に留まっていられません。

息苦しさに掻き立てられて、一生泳ぎ続けるマグロのような人生は、幸せと言えるでしょうか?

生きようとするだけで、必死に泳ぎ続けざるを得ない一生は、一見不幸にも思えます。

しかし、マグロの人生も案外捨てたものじゃなさそうです。

死後のことですが、マグロは多くの人間たちに好まれます。

多くの人々にその価値を高く評価され、高値で取引され、高級食として寿司屋などで提供されます。

その一方で、庶民的な料理にも使用されたり、仕事に疲れたサラリーマンを癒す酒の肴になったりもします。

そのことを、生きているうちにマグロが知ることはありません。

しかし、もしもそれを知ったら、マグロはどう思うでしょうか?

少し複雑な気持ちもあるかもしれませんが、ほんの少しは、きっと喜ぶんじゃないでしょうか?

その場に留まれない宿命を背負った自分の一生が、誰かを喜ばせることにつながると知ったら?

「県民性」のせいにした自分の性格と、拭えない劣等感により、私もまた移動し続ける宿命を背負っています。

泳ぎ続けるマグロの一生とそのおいしさを噛みしめながら、私は考えます。

「この私の移動し続ける人生は、マグロのように、誰かを喜ばせたりするだろうか?」

マグロの刺身を食べるとき、それが美味しいという事実に、私は少しほっとします。

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